妄想に生かされる

自分語り、BL、創作、性癖などを置いていく場所

「愛し合うように喧嘩」とは

 昔は全然観なかったドラマを最近観るようになった。その中で今、面白いなと思うのが金曜日の22時からやっている某刑事ドラマ。米津さんが主題歌を務めるあれ。

 あの曲は本当に良い。何が良いって、ドラマの内容にピッタリハマってる(主題歌だから当然)し、最近増えつつある?バディものの曲としては歌詞が秀逸だと思う。「愛し合うように喧嘩しようぜ」という歌詞、一体どれだけの腐仲間が推しCPに当てはめて妄想を繰り広げただろう。勿論僕も例に漏れず。というか、恋愛が主題ではないドラマの歌に「愛」という単語を組み込む感性が個人的に好きだ。

 

 ところで「愛」って何だろう、と常々考える。

 辞書で調べてみたり宗教的な観点で見てみたり、もしくは人によっては「これが愛だ!」と言い切ってしまえる人もいれば、言葉にしようのない感情こそ愛だと嘯いてみたり。「愛」の定義は人それぞれだと、俺は思う。個人的な見解。

 性欲=愛とか、そういう意見が結構まかり通っている気がしていて、じゃあ家族に対する感情は愛じゃないのか?って疑問に突き当たるし(この際親に対する近親姦的願望どうのこうのの心理学的話は置いておいて)、生涯で性欲を全く抱かない人もいる中、暴論のようにも感じる。

 話は戻り、米津さんの昔の曲に似たような歌詞があって、「愛ともいうその暴力で君と二人で喧嘩したい」というものなのだがあれも好きだった。

 「喧嘩」と「愛」という一見結びつかない言葉を直喩で繋げてしまう感じ。そういう愛の形もあるんじゃないか、いや、あっても不思議なことではないしそれを否定するなんてことはできない。「愛」=定義がない、つまり人それぞれ。

 

 最近、人と関わるようになってきて、色んな考え方色んな生き方の人がいるのだとしみじみ感じてる。以前もそういうスタンスでいるつもりではあったが、勝手に想像するのと実際に会ってみるのとではまったく違う。自分もようやく、自分以外の他人のことが見え始めてきた気がする。

 これだけの人間が生きている中で、価値観がまったく同じ人間なんてまずいない。それをわかっていようがいまいが、折り合いをつけながら生きていくしかない。

 

 セクシャリティだってそうだ。人それぞれ。わかりやすいようにLGBTなんて枠にはめて説明してるだけで、本当はそんな枠も実際は存在しない。ゲイでも女性とセックスできるとか、トランスでもあえてユニセックスな振る舞いをしたりとか、それを他人が見て「それは違う」と言う権利はどこにもない。

 そんな中で愛というものが何かなんて、考えれば考えるほど無粋に思えてくるのだ。

 性欲を伴わない愛も確かに存在する。人と違う意見だとしても「これが私の愛だ」と胸を張って答える人もいる。だったら、同性愛者か異性愛者かの線引きは一体どうすればいいんだ、っていうのも気持ちはわかるけどそんなん本人にしかわからん。その人が愛だといえば、何が何でも愛なんだろう、多分。

 その愛が向く対象が人間でも動物でも物でも二次元でも三次元でも同じことだ。愛し合うように喧嘩する人もいるし、喧嘩するように愛し合う人もいる。種類も沢山ある、それこそ人の数ほど。性欲=愛では必ずしもない。そして言葉では説明できない感情とか行動をとる人間ってやっぱり面白いなって思う。

 

 よく恋は自分本位、愛は他人本位と聞くが、それって愛の定義が様々だから自分の価値観が相手に通用しなくて、それでも相手を尊重したいと思うから自然と他人本位な考え方になるんじゃないだろうか。自分でも何言ってるかこんがらがってきた。何回愛って言えば気が済むんだ。

 まあ、今のところ自分の中でこれが愛だといえるものを経験したことがないので、自分はまだまだ愛も知らないひよっこということだな。